書籍詳細

書籍のレビュー・概要

幕末、戦前、そして現在。3度訪れるナショナリズムの正体に、150年の時をへて我々は向き合わねばならない。その起源が幕末の尊皇攘夷思想である――。『どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。』「一八六八年と一九四五」を収録、批評家加藤典洋による晩年の思索の増補決定版。(解説・野口良平)

増補 もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために

Takumi ブックス

増補 もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために

著者・関係者
加藤 典洋 著
カテゴリ
現代文庫
刊行日
2023/02/15
体裁
A6・並製 ・カバー ・542頁
ISBN
9784006023492
在庫状況
在庫あり

価格:1,958 円

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著者略歴

  • 加藤典洋(かとう のりひろ) 1948-2019年.文芸評論家,早稲田大学名誉教授.著書に,『言語表現法講義』(岩波書店,1996年,第10回新潮学芸賞),『敗戦後論』(1997年,ちくま学芸文庫,第9回伊藤整文学賞),『小説の未来』『テクストから遠く離れて』(2004年,朝日新聞社/講談社,両著で第7回桑原武夫学芸賞)のほか,『さようなら,ゴジラたち』(2010年),『3.11 死に神に突き飛ばされる』(2011年),『ふたつの講演 戦後思想の射程について』(2013年),『村上春樹は,むずかしい』(2015年),『日の沈む国から』『世界をわからないものに育てること』『言葉の降る日』(2016年),『増補 日本人の自画像』(2017年),『僕が批評家になったわけ』(2020年)(以上,岩波書店)など.

目次

  1. 「複雑さを厭わずに考える」こと――序に代えて Ⅰ 二一世紀日本の歴史感覚 もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために――丸山眞男と戦後の終わり 絶望のとき? 丸山眞男――戦後民主主義の創作者 手がかりとしての反時代性 福沢、丸山、大江――忠誠と反逆のつながり 福沢、丸山、山本――なぜ尊皇攘夷思想か 尊皇攘夷思想と皇国思想 大対立、中対立、小対立 終わりに 三〇〇年のものさし――二一世紀の日本に必要な「歴史感覚」とは何か はじめに 明治一〇〇年から明治一五〇年へ 現状――「後退国」 アジアのなかでの特異さ 「戦後か明治か」と「戦後も明治も」 戦後の「むなしさ」 明治の「浅さ」 「なかったことにされた」ものの再帰――一八五〇年代と一九三〇年代と二〇一〇年代 尊皇攘夷思想とは何か 一八六八年の分断線 三〇〇年のものさし――尊皇攘夷と現代世界 最後に――丸山眞男の幻像 Ⅱ どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。 どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。――幕末・戦後・現在 はじめに――演題について 1 「犬も歩けば、棒にあたる」ということ 2 間違う思考は、間違いか――吉本隆明さんとのやりとり 3 「内在」から「関係」への転轍――『日本人の自画像』 4 現代世界と尊皇攘夷の「変態力」 5 幕末の攘夷思想と昭和前期の皇国思想 6 吉本隆明の一九四五年 7 護憲論の二階建て構造 8 壁にぶつかる護憲論 9 憲法九条から日米安保へ Ⅲ スロー・ラーナーの呼吸法 ヒト、人に会う――鶴見俊輔と私 できごと 鶴見俊輔、一九七九~一九八〇、モントリオール エピソード――道順、受講生たち、話の終え方、話し方 『北米体験再考』、『私が外人だったころ』 三〇センチのものさし うさんくさいということを、おもしろがる 人との出会いとはどういう経験か――一人が、一人に出会える 高さと深さ 何もいえない、という回答 犬も歩けば棒にあたる 書くことと生きること 書くこととは何か ゆっくりやること 「微力」について――水俣病と私 微力ということ 私にとっての水俣病 言葉とささやき 『アメリカの影』 佐藤真監督の『阿賀に生きる』 ブリューゲルの「十字架を担うキリスト」 アイリーン・スミスさんの判断 石牟礼道子さんの『苦海浄土』 Ⅳ 「破れ目」のなかで 矛盾と明るさ――文学、このわけのわからないもの はじめに 文学とは何か――お猿の電車について 文学の力とは何か――ホッブズ、ルソーからドストエフスキーへ 文学、このわけのわからないもの――『何をなすべきか』vs『地下室の手記』 文学の答え――「大審問官」の章 終わりに 戦争体験と「破れ目」――ヤスパースと日本の平和思想のあいだ はじめに なぜここにいるのか 限界状況と敗戦 ヤスパースと日本の平和思想 生への決意性と生の偶有性 『原爆と人間の将来』における「精神的転換」 形而上的な罪と「破れ目」 ゾーエーと抵抗――何が終わらず 何が始まらないか 死の不可能性 「ないこと」があること 「(無限性のなかに)有限がある」と「(有限性のなかに)無限がある」 しないことができること、することもしないこともできること 「称名」と応答――素人の感想 ヤスパースから法然へ 三つの転回 「第一八願」と可誤性 「イエスの血は決して私を見捨てたことはない」 Ⅴ 明治一五〇年の先へ 上野の想像力 八月の二人の天皇 明治一五〇年と「教育勅語」 Ⅵ 一八六八年と一九四五年 一八六八年と一九四五年――福沢諭吉の「四年間の沈黙」 はじめに――再来・反復・忘却 1 思考枠組と仮定の問い 2 幕末人、福沢諭吉 3 単線的と重層性 4 「四年間の沈黙」 5 反省の意味 6 「開鎖など云ふ主義の沙汰」 7 丸山眞男における幕末と明治 8 福沢と丸山――一つの岐路 9 普遍と「公」――福沢、中岡、吉野 終わりに――置き去りにされたもの あとがき――少し長めの 解説それでも犀のように歩むために………野口良平 初出一覧

本文紹介

幕末、戦前、現在と3度訪れる、ナショナリズムの起源に向き合うために。晩年の思索の増補決定版。

抜粋:幕末、戦前、そして現在。3度訪れるナショナリズムの正体に、150年の時をへて我々は向き合わねばならない。その起源が幕末の尊皇攘夷思想である――。『どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。』「一八六八年と一九四五」を収録、批評家加藤典洋による晩年の思索の増補決定版。(解説・野口良平)